SUN 02号掲載『悟りとは何か 1』

  • SUN

SUN 02号掲載『悟りとは何か 1』

 

●山田孝男講義録

山田孝男は、昨年秋より、小人数対象の全12回で瞑想について教える教室を開いた。
その第一回では、瞑想および悟りについて、まとまった詳しい説明をおこなった。
ここでは、その内容を数回にわたって紹介しよう。

 

神秘体験と瞑想

私は幼い頃から体が弱く、コンプレックスを抱いていました。また家族が信仰深く、早くから人生について宗教的見方をするようになりました。死んだらどうなるのか、地獄、極楽は本当にあるのか。僕のテーマは、人間がどうしたら幸福になれるのか、不幸とは何なのかの解明でした。仏教では諸行無常、あらゆるものは相対的な物であるといいます。

我々のいる現代でも、今日は楽しくても明日突然、不幸や災難がめぐってくるかもしれません。結論として、世界を体験している「わたし」というものが不幸、幸福を体験しており、その「わたし」というものが結局何なのかわかると、世界のこともわかるようになってくるわけです。そうした探求を続けて、そこに至るまでに死の恐怖を通りぬけ、神秘体験を経験することになりました。

超能力と神秘体験がどう違うかといえば、超能力といわれる力を発揮している状態は日常の意識からかけはなれたものでなく、マインドの領域が作り出した、誰でも持っている能力の一つであり、悦惚とした、天国のような意識状態とはちがうわけです。

神秘体験は日常とまったく違う意識の拡大であり、日常意識もありながら大きな気づきがある、非常に幸せな状態、いわゆるエクスタシー、あるいは完全な覚醒、めざめた状態、今まで解からなかった問題が直感的に全部わかったような拡大された意識状態になるわけです。突然やってきて普段の思考がストップして、広大な意識の世界となり、いままでと同じ所を見ていても違った世界の様に感じられるのです。

その時の僕自身の印象をいうと、またよく知っている世界に来たな、という感じなんです。子供時代から内面的に知っていだけれど、あるとき忘れてこの現実の世界だけになってしまうんです。そのようなずっと知っていた、安心感があり死の恐怖も悩みもなくなってしまう、全てのものを受け入れられる、この世界をありのまま肯定できる対立のない意識状態、いろいろな本でいわれる至福の状態なわけです。

そうした状態においては、それまで抱えていた悩みとか苦しみなどは、こんなものなかったんだと気がつく。
その後日常の意識に戻ってくるわけですが、まだ問題が解決されないでいることがほとんどですよね。高い意識状態に行っている間は本来の自分ですから、そこの世界に簡単に行けるという気がするわけです。

だけど戻ってくるといつのまにか、そこに至る扉がどこに行ったか見えなくなってしまう。体験している時は満足していて欲望は消えています。そうした意識が当然のことに思えて、またここに来たいとは思わない。現にいるわけですから。戻ると失われた天国があり、またもう一度、という気持ちがつのるわけです。最初の頃は神秘体験は自由にできませんから、ひとつの悩みとしてどうしたら体験できるのかが、瞑想のテーマでした。

 

不滅の自己、アートマン

瞑想の目的、なぜ瞑想するのかについて、その究極の目的としてヴェータンタ哲学が示しているのがサット、チット、アーナンダ───存在、意識、至福、という理想の意識状態の実現です。8世紀の聖者シャンカラチャリアがうちたてた思想は、絶対一元論といわれ、宇宙神は一つ、この現象の世界はたくさんのものから構成されているが、もとは一つだとするものです。それが昔から神といわれてきたもので、なぜそれが分かれているかを説明する哲学です。

この世界はマーヤ(幻想)であるとして、その幻の中で、私たちは夢をみて、喜怒哀楽の生活を繰り返すわけです。そして、その夢に執着して何度も輪廻をくりかえす。それを動かしているのがカルマの法則です。悟りあるいは解脱というのは、自分の本性が宇宙とひとつであることを自覚することであり、この本性をアートマンとよび、これは不滅の自己という意味です。

人間の心の奥に、生まれたことも死んだこともない最初からこのように一なるものがある。それが人間の本当の姿であるし、それに目覚めたとき地上の現象界の幻が消えて、本当に宇宙と一つとして、永遠として、体験する。過去も未来もない現在のままという意識状態があらわれる。それがアートマン、宇宙全体を創造した原理と一つなわけです。
永遠不滅のアートマンを説明したのがサット、チット、アーナンダです。その状態を体験するには、我々の心を働かせてはだめです。理屈を持って考えて理解したり、知識、想像力、そのようなものを使って体験したものは、にせもの、幻なのです。体験する人とされる対象物の客観と主観、二元性、見るものと見られるものの関係性が、続いている間は本物じゃない。

サット、チット、アーナンダの状態にはいれば自ら輝けるものになれるわけです。例えば月は太陽の光を反射して輝く。太陽が無ければ輝かない。同じように我々の世界も何かのものによって照らし出され、つくりだされたもの、幻なのです。我々の本質は、自ら光を出すものであり、それに目覚めたとき闇は消え、永遠の意識状態、天国も地獄もなく、あるのはただ、表現をこえた至福の状態である、というのがインド哲学の基本です。
そこに至るために、心をコントロールするわけです。なぜなら心が働いてこの世のいろいろな幻を作っているからです。

ヨーガの修行の基本は、心の活動を静めること、精神統一です。心は対象を選んで一瞬ごと移り変わっているのですが、ばらばらの考えを一つに向かってまとめて、心の向かう対象物を一つのものに絞り込む。例えば海にも速い流れの海流があるにもかかわらず、小さい動きが目につきにくければ、何の流れもないように見える。私たちの心も小さな動きがなければ、まるで一つの方向へまっすぐ流れている大河のような心の状態へ、やがて入ってきます。心の活動を静める、まとめて管理する、そうしたことを続けていると、最後には心そのものの動きも停止するところへいきます。
すると、自ずと、心を超えたある意識状態が浮きでてくる。それが悟りといわれる、気づきです。そのために精神集中の長い訓練を必要として、インド人は何年もあるいは一生かけて取り組む人が多かったけれども、現代人にはたいへんなことです。

 

悟りの意識状態

悟りの意識状態とは、対象を超えて内から宇宙的に拡大された意識なわけです。それは全てであり、大きい小さい、高い低いを超えています。要するにAとBというものを相対比較して認識する世界ではなく、AでありかつBである、すべて含んで区別のない意識です。

相対世界を超えたサマーディの意識の状態にはいった時、対象がなくなり、あるがまま、時間もストップして生まれも死ぬこともない最初からこうだったという意識に至る。それはふだん私たちが感じている「わたし」という自我意識とまったく違うものです。

誰でも本質は相対を超えた意識状態を持っているんですが、そこに至ったときいくつかの種類があります。本当は区別のない世界ですが、現実問題として完全にそこに行くのは非常に難しいことです。最後まで悟りの意識をじゃまするのが記憶なんですが、それが多少あって完全なサマーディはなかなか得られないといわれます。
それらサマーディの中に、超意識状態といって宇宙のあらゆることがわかる意識も含まれます。だけども、完全なる解脱という宇宙意識の中では、知りたいという欲求がなくなります。最初から知っているわけですからさらに知りたいとも思わないし、その働きもないから見かけ上知らないのと同じになりますが、ようするにあらゆる知識が究極の状態では一つの幻になってしまっている。

だから全知全能というか、宇宙の全てを知っているというような、聖書のたとえで雀が落ちるか落ちないかも神の意志だといいますが、悟りの全知とはそんな相対的説明を超えたものなんです。隣の猫が魚を盗んだかどうかを知っていることとかでなく、それらは幻なんだから、どれだけ幻を知ってるかは悟りとは関係ない。とにかくこれは夢なんだと区別がつけばいい。それが全知の状態です。

仏教ではそのような知恵を説明していて、細かいことを知ろうとして知る一種の超能力的状態はある。でも最高の状態は何も知らないのと同じ。それは、知識としては知っても知らなくても同じで、それらを超えているというわけです。
自分は何なのか知っていればいい。自分は宇宙そのものであって、いわゆる神であって、始めもなければ終わりもない存在なんだと、はっきり知っている意識が瞑想のある段階で目覚めてくる。それを昔から、悟りの意識状態とよんでいます。

とにかく瞑想の究極の目的は、その意識状態に行くことであるわけです。そこに行ったときにですね、それを説明することばがないんですね。それを伝える方法もなかなかない。僕はある時期にその意識状態を体験したわけですが、30歳以降どのようにして人に伝えるかというテーマを追求してきたわけです。
今も続いていますが、言葉で説明するのはいくぶん助けになることもありますが、すればするほど邪魔にもなります。

 

[以下次号]

関連記事一覧

TOP
TOP