SUN 03号掲載 『悟りとは何か 2』

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SUN 03号掲載 『悟りとは何か 2』

 

●山田孝男講義録

この文章は、山田孝男が行った瞑想についての講義を文章にまとめたものである。
今回はその2回目を掲載する。

 

 

禅の悟りとは

悟りを伝えようとするとき、言葉を使う方法と、もう一つ禅的なものがあります。禅では色々な奇妙なやりかたをとります。曹洞宗では只管打坐といって、ただ座れとします。また臨済宗は、頭でいくら考えても答えのでない公案を弟子に与える。答えを出そうとしてひねくり回しても、もともと出ないわけで、人の頭をコンピュータにたとえれば、お手上げの状態になるようにデータを選んで与えるわけです。有名な片手の拍手の音、生まれる前の自分自身の姿を見よとか、無理介難題です。

僕が皆さんにさしあげる公案としては、自分の意識がないとき世界はあるのかないのか、皆さんが熟睡してるとき世界はどこに行っているのかというものです。
コンピュータがお手上げでストップしたような状態になったときに、見性といわれる意識状態がでてくる。心身脱落、相対的なものは抜けおちて、心もなくなった状態といわれます。その体験を持ち弟子は、老師のもとへ行きその存在そのもので答えるわけです。そして老師は手応えを感じれば弟子を認める。
ところが最近は、知識で、あるいは理屈で悟りとはこうだとわかっているから、昔のようには機能しないんです。本当に悟った坊主はいないんじゃないですか。そんなところに弟子入りしても、気違いになるだけです。ある道場などは精神病院のお得意先になっているという話です。

ヨーガはシステマティックに心の動きをストップさせていく修業です。その他宗教的な色々な方法もあります。普遍的な神に全てをまかせる、自分の行動一つ一つ私がやってるんじゃない、私がやっているという自我意識から執着をとっていくという、信仰の道があるわけです。そして最後は全てが愛であり慈悲である、そういう状態に自分自身を高めていく。そうすると対立がなくなるから悟りの意識に到達します。

 

全ての人が最初から悟っている

色々な道がありますが、究極は一つです。そのような意識状態から世界を見ますと、世界には様々な哲学や科学が明らかにした、宇宙観があります。最初のうち世界は、せいぜい、自分が見渡せる範囲だったのが、やがて海や空を越えて、地球を外から見たり、無数の星を発見し、150億光年ともいわれる宇宙の広さを理解したりするんですが、悟りからみると大きい小さいはないから同じなんですね。

原始人が自分というものがわかってある意識に到達したのと、現代人がその意識に到達したのと、何万年の差はあっても、同じものなんです。広大な宇宙から神秘的内宇宙までいろいろな体験がありますが、それらを体験しない神秘体験も、気がつけば同じなんです。
相対性を超えた、現象を超えた意識状態を伝えられないじれったさがあって、それをなんとかするため、僕は瞑想のテクニックを工夫してきた訳です。結論から言うと、そうしたテクニックはないよりはあったほうがよい程度のものなんです。悟りに関してはあまり期待しないでください。我々にできることは準備をして待つことなんです。
誰に対しても平等に、天からまんじゅうが落ちてくるようになっているんです。だからそのとき口をあけていれば中に入るかもしれない。そのための準備なんです。

口を開けておくというのは、心を整えておく。いつ悟りの意識がひらくかわからない、そのために待っていなさいということなんです。また心がけの良い人のところには、まんじゅうが落ちてくるようになっているんですね。僕も、誰が悟りの体験をするかは何も言えないんです。

 

いくら考えてもわからないものが、自分の本質

全ての人が究極においては最初から悟っているんです。悟ってない人はいないんですよ、中身においては。だから中身の悟りそのものが、皆さんの本質ですから。いずれはそこに行くんですけど、ただ早くと思ってもそれは思い通りにはいかないという性質のものなんです。だから熱心に求めなさいということで、口を開けて待ってなさい、そうすれば開けてない人より早く落ちてくるし、口に入るでしょうということなんです。

ここで強調したいことは、日本でも精神世界の情報が氾濫して、宇宙のこともチャネリングやなにかでいろいろな知識が与えられていますが、そうしたことにあまりこだわらないように。小さいことの中にも、宇宙を見ることができるんです。電子顕微鏡の中に広大な世界があるように、極小も極大も限りがありません。星々もウィルスも同じものなんです。
現代人に距離や大きさの観念があっても、原始人が星をみるのとたいして違わない。いろいろな宇宙論の中身で一喜一憂しないように。それは、今も昔もかわらないで、同じようにあるんだということなんです。そして全ての人が悟っているわけですから、まずそのことを受け入れなさいということなんです。

全マインド、理解できる全ての能力を使って受け入れればいいんです。いくら巨大なコンピュータでも解けない、それを超えた問題があるということを、(頭という)コンピュータの全能力を使っでそのことを悟りなさい。解き明かそうとしていたら、永遠に続くか途中で壊れてしまうか、どちらかです。唯一の解決策として、これは解けないと早い時期に答えを出してしまう必要がある。
我々の心に関して言えば、知性を超えた、いくら考えてもわからないものが自分の本質なんだと、認めなければならないんです。それを認めることにより何が変わってくるかというと、生き方が変わります。価値観がガラリと変わります。今まで執着していたものに対し、もっとあっさりとした態度をとるようになります。

子供はあの星を取ってと泣くかもしれないが、皆さんは不可能だとわかっていて、無理難題は望まない。同じく人生の出来事は、願っても解決できないこともあるとすると、執着はとれる。そして平安な意識状態になる。
不老不死にあこがれ、細胞を蘇らす技術を作ったとしても、肉体がある限り必ず衰える。どこかでそれを理解し、永遠不滅に対するこだわりをとらなければならない。それが人間としての悟りなんです。

 

小乗の悟り

そういう意識状態で日常生活をしているうちに、自然に悟りの意識が内側から出てきます。その状態を表現すれば、昔からよくいわれる、あの人は欲がないといういいかたがあります。本当はないんではなく欲はあるんです。あるけど、いわゆる執着というものがなくなる。こだわりがなくなる。悟った人はあらゆるものから自由になるといわれます。それは意識の状態から、あらゆるこだわり、とらわれがなくなるから、全てが自由になる。
でもそれは何をしてもいいかといえば、何をしてもいいんですけど、しないんです。してはならないことはしないだけなんです。なぜかというと、するとこだわりが生じてくるものがある。そういうことはしないようにする。それが知恵です。

そしてすべての人はその面から見たら本来苦しみも悲しみもないのに、苦しんだり悲しんだりしている。だから、どこかでそれを求めて生きているとしか思えない。そのように考えてくると他人に対する同情心、憐れみがなくなる悟りの状態があります。
つまりこの世は幻だから、人の不幸も存在しないと気がっくわけで、人の苦しみに対して非情になり冷たくなる。その状態を仏教では触覚仏といい、小乗の悟りなわけです。この世のいっさいは、夢、幻に過ぎないという気づきで、相対的世界は消え去るわけです。

 

菩薩の悟りと仙人の悟り

それに対して、確かに幻かもしれないが、その中に不幸や悲しみがあり、それはないほうがいいと、夢であると知りながら夢を楽しいもの、平和なものに変えていこう、そういう働きがある。世の中の大いなる悲しみ、仏教でいう大悲、それと意識が結合するような、人々に対してあるいはこの世界の、虫から動物から、いっさいの有情、心のある存在に対して憐れみの心を持つ状態がある。その苦しみを感じてそれを和らげようとする慈悲心がでてくる。

それを菩薩というんですけど、みずから悟りの状態を捨てる。この世のいっさいが非実在だとして、この世から去った状態から、やはり捨てておくわけにはいかないとして、戻ってくるんです。この世の迷いとまた結合するわけです。幻と知りながら、楽しい夢をつくるために力を貸すというコースをたどる。大乗仏教で言う菩薩のコースです。

この世の不幸と結合するわけですから、またすごく時間がかかる。そして菩薩の意識がカバーできる、つまり縁がある関係性のなかで、もし菩薩が地球だけでなく太陽系、銀河系全体を意識していれば、その全体が悟らなければ悟りの世界にいかない、と誓いをたてるわけですから、大変な時間がかかる。
ですが、菩薩の中身は時間も幻だと知っていますから苦にならない。何回生まれ変わっても苦にならない、ということになります。だから菩薩の生き方をするには、ある時点で世界の幻性を徹底的に、マーヤを自覚してもどってこないといけない。しかしいったん悟ったとはいえ、またこの世界にもどってくるとき、世界の法則と関係を持ち、現象世界の罠の中にはいるわけですから、泥の中に手を突っ込むと当然汚れます。

最初は泥は存在していないんだから、汚くないんだと知ってて突っ込むんですが、だんだんと汚さが染みてきて、悟りの意識を曇らせるわけです。それで菩薩であっても喜怒哀楽の世界で苦労しているのが現状です。菩薩という言葉を使うと大げさに聞こえるかもしれないけど、皆さん現代人としてこの世に生きている人は、みんな菩薩といういいかたができます。普通の生き方をしている人はね。

そうでない生き方をしている人は、仙人です。仙人の生き方は世の中の関係、絆をできるだけ切っていくわけです。山奥に引きこもって親類縁者、友人、知人とか誰とも会わないと。人に会わなければ、どこの誰が苦しんでるとか心配しなくていいわけです。
俗世のことは関係ないと、せいぜい生きるのに必要な、自然との交流が残るわけです。人間との絆は一番、心を迷わせますから。自然は、正直に法則に応じて接触してくれます。人間みたいに騙すことないですから。

そのようにして仙人の意識は執着を無くし、悟ったとき、この世界が消えるということです。ただ仙人の悟りは永遠じゃないことがあるんです。人間の尺度からいけば、途方もない長さかもしれないけど、あるとき仙人の悟りの種、カルマが尽きる危険性もあるわけです。絶対的な悟りに到達していない仙人が多い。
なぜかというと、この宇宙というのは、目に見えない、はるか彼方の銀河系の影響がどこかで絡み合って、いろんな関係性を通して、地球まで及んできているわけですから、完全に全体との関係を切り離して自分だけ夢から覚めるというのは非常に難しい。悟ったと思い込んでいても、錯覚の可能性もあるわけです。

 

[続く]

 

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