SUN 04号掲載 『悟りとは何か 3』
●山田孝男講義録
この文章は、山田孝男が行った瞑想についての講義を文章にまとめたものである。
今回はその3回目(最終回)を掲載する。
愛や慈悲の本質は、究極のところに接触している
僕としては菩薩の悟りが、現代人がとりうる一番良い方向じゃないかと思っているんです。みんなが、まわりの友人知人全体が幸せになるように自分の生き方を考えて、みんな一緒に楽しい幸せな状態に向上していきましょうというのが、一番素直な道として、受け入れられるんじゃないでしょうか。
けれども結果に執着してとらわれてはいけない。うまくできたかどうかについて、こだわってはいけない。淡々として良いことをしなさい。
例えば、ある医者が自分が治療した人が死んだとして、自分の力の無さを嘆いて一生を悶々として生きたとします。彼自身も不幸です。だから生き方の姿勢として、現在できることをしなさい。できるのにしないのは、後で後悔のもとになる。スポーツマン精神のように、せいいっぱいやって結果にこだわらない、やるときは全力で精一杯、やることをやりなさい。
そのような悟りの立場から見ると、人生には意味があるのかないのかというと、はっきりいって、皆さん、人生にはすごく深遠な意味や価値があると思っていらっしゃるかも知れないけど、本当は価値が無い、意味が無い。だけども見方によっては、価値があるともいえる。非常に微妙です、ことばでいうと。
だから執着するなということです。唯一人生に価値があるとすれば、愛です。人間と生まれたからには、愛というものに価値をおくべきです。愛とか慈悲に価値をおくべきだと、僕は思います。なぜかというと、その愛や慈悲の本質は究極のところ、絶対一元のところに接触している。
そこから流れ出したもので、悟りのところに糸をつないでいる唯一のはたらきである。それが現象界において働いている原因なわけです。
人生という神芝居
だけど皆さんが考えている「こういう生き方は尊い」とかいった考え方は、それは仮のものなんだということ。宇宙的な悟りという絶対的な意義からみたら、それもたんなる幻のなかの出来事でしかない、ということになります。
そうなると皆さんが生きている人生の意味とは何かというと、芝居をしているんですよ。人生という神芝居をしているんですよ。だから皆さんは神なんですよ、本質は。そのことを知っててしているかどうか。芝居をする役者は自分が行なっていることを知っています。大悪人でも人殺しでも、これは仮のものだと知っててやります。
ところが人間はそれを知らないから、実際に人殺しや犯罪をして不幸になる。知るとそういうことはしないんです。役者であることを悟ったら、だいいち人を殺さないだろうし、仮に殺しても問題の解決にならないことを知ってますから、殺人は犯さない。殺人を犯す人はすべて悟ってない人だから、そういうことをする。皆さん、太陽の光によって毎日、地球上で何人も死んでるでしょう、日照りとかあるいは寒さもそう。
でも太陽を犯人とはいいません。仮に、悟った人が原因で誰かが死んだとしても、誰もその人が悪いとはいわない。その本質は太陽の光のようなもので、自我を超えているから彼がしたことにならない。その人の一挙一動は自我から離れたところで行われ、彼の人間的肉体を超えたところにありますから、肉体を罰しても彼の主体の悟りの意識は罰せない。
時代によって教えも変わっていきます
悟りの状態まで達するために、それを地上から屋根に上ることに例えれば、地面から一気に上る方法もある。しかしそれは何かの偶然で、自分がどう上ったかわからないから、地上の人にどうやって上ったか教えられない。そのような悟りの仕方もあります。
私が教える瞑想は、屋根に梯子をかけて一段ずつ上っていく方法なんです。上ってしまえばその梯子はいらなくなります。手段ですが途中の段階では貴重なんです。どのくらいの高さに上ったかは、システマティックな方法ではどの段階にどの体験があるか、ある程度いえます。けれどもその人が梯子にしがみついていては屋根の上に立つことはできない。これはお釈迦様が説いたといわれる経典の中にあるわけです。
そのなかで金剛般若経という、禅宗がよくもちいるお経がありますが、その中にいかだのたとえがあります。仏教では悟りの世界を彼岸というでしょう。向こう岸の意味です。そこに到達するためいかだがある。いかだが教えです。渡ればいらなくなる。教えに執着してはならない。現代にはたくさんの教えや理論があります。要は二人乗りにしろ百人乗りにしろ、向こう岸に着くのが目的です。教えはあくまでも教えで、いらなくなる時があると知った上で、したがっていきなさい。
時と場合、時代によって教えも変わっていきます。絶対的なものではありません。今の宗教を絶対的なものとすると過ちを犯します。キリスト教でイエスだけが神の子とか、天国はこうであるとか、全て教えでしかない。
仏教もずる賢く、嘘も方便なんていってます。手段、てだてなんですね。向こう岸に渡らせるへための、方便だと。あまり強調すると本音と建前がわかれて、いわゆるブッダカンパニー株式会社ができあがります。お釈迦様を社長にまつりあげ、適当に金をとって暮らしていくという形になる。しなくていい葬式や戒名で、金をとったりするわけです。
超常体験についていうと、ある神秘体験をしたとして、エゴが肥大、自我が膨張、増長して、鼻天狗になる現象があります。自分はすごい体験をした、特別な人間、選ばれたものだと。
僕もそういう意識になりかかったときもないわけじゃない。よくわかります。それは大きな障害になるんです。あくまで謙虚でなければならない。また逆に、体験によりコンプレックスを作ることもある。自分は他人と違う、病的な人間だというように考えるわけです。どちらも両極端ですから、罠に落ちないようにしなければなりません。
宇宙意識をいう前に
そうした時に、現実に生きていて、アドバイスしてくれる先生が必要になってくる。インド的な指導でも日本でもよくありますが、一人の強力なカリスマ性を持ったグルがいて、生徒たちに教えるやり方があります。グルを絶対視して、神のように崇めるわけです。
しかしそのグルが未熟であると、みんなのエゴが分解して日常的な価値観が崩壊したとき、とんでもない価値観を押しつけてしまうことがあります。それが狂信の状態です。あえていわなくても、まわりにいっぱいありますね。
宗教体験と精神病には、非常に似たものがあります。そのような迷いにはまらない一つの方法は、自分というものをあくまで確立して、最後まで自分にこだわりなさいということです。わかりやすくいうと、自分は何を欲しているかいつも知っていて行動しなさい。
欲を持ってることは恥ずかしくないし、自然なことだから知った上でしなさい。本当に知っていれば、欲望のまま行動したほうがいいか、手綱をとって追求すべきか自ずとわかります。
本当に自分を知っている人は、自分の行動に対して責任をとれます。自分をよく見て行動する人は、仮に結果が失敗しても、そこから学んで二度とそういうことをしなくなる。知らないでやると何度も同じ過ちをする。
自分というものをいつも見つめて行動しなさい。それが自己の確立といわれる、個の確立です。一挙に宇宙的な意識に向かって自分を無くすることが、すばらしいことじゃないんです。自分を無くする前に、自分の中心となるものをちゃんと確立する。まず最初は自我です。
自我そのものは誤りではあるが、それさえなくて揺れている人が多いんです。それが、どれほどふらふらしているものかをちゃんと見つめると、信頼はおけなくなります。そして次の内なる私に向かう。そして本来のよりどころである、わたしにむかったとき本来の個が確立する。そして初めてそれが捨てられる。すなわち宇宙的な個、個は一つの種ですから、その種がちゃんと形を成して成熟したとき初めて、より大きな宇宙的な意識に芽をだすチャンスがきたわけです。まず種となる自分を確立しなさい。
喜びを求めて世に生まれてきたことを、思い起こしたほうがいいです
普通のチャネラーはいつまでたっても悟れません。なぜチャネリングするかといえば、より大きな知恵を仰ぐことで、自分というのは何者なのか学んでいくわけです。そして最後にはチャネリングの対象と意識が統合していく。一体化していったとき自分は悟ったといえます。
一体化せずにいると、いつまでもチャネリングしてる本人は悟れない。チャネリングのソース(情報源)は悟ってるかもしれないけれども。もともと人間の本質は悟ったものだといいましたが、なんで迷いの世界を体験するようになったんでしょう。死ぬことも生きることも、存在自体が無駄だと解かるんだけども、それが解かるまで存在し続ける。最初から無駄とか無駄じゃないとか知ってたんじゃなくて、みんな喜びを、楽しみを求めてこの世界に生まれてきたんじゃないでしょうか。
現実世界が一番修業ですよね。なぜ修業するかといえば、実は喜びを求めて世に生まれてきた、それを思い起こしたほうがいいです。修業は、それを思い起こすためのものです。
この物質世界から我々は帰ることになるんです、みなもとへ
魂が進化の核となっている部分とすればですね、修業の成果というものを味わう主体が無くてはならないのですが、その主体となる種が、人間の魂なんです。それがいろんな人生その他の様々な修業を通じて、どんどん成長してあるところにいったとき、進化の究極の臨界点に到達します。
魂が地上の体験を求めてこの存在の中にやってきたわけです。
肉体に入り、物質世界を味わっているわけですが、何のためにかというと、その動機の根本に、楽しみがあるんです。宇宙というのは、ある時点で完壁なんだけども、その中にそうじゃない、より完全を求める動きが生じたんです。それは何故かは誰にも言えない、永遠の神秘だと思います。
それが最初の神になっているわけです。宇宙の何もない、有でもない無でもない、ことばでいったら空みたいなところから、宇宙が生じてくる一つの動きがあった。そしてその動きが、神の創造活動がもたらした動きの最後に、物質の世界まで下りてきた。そこで初めてU夕一ンの流れに乗ったんです。
この物質世界から我々は帰ることになるんです、みなもとへ。何故ここまでわざわざ下りてきたかというと、楽しみを求めてきたんだけど、物質世界まで降りてきたことにより、初めてその楽しみは何なのか意識された。そこまで修業する必要があったわけです、本当の楽しみを気づくために。
そして楽しみは相対的なもの、苦と楽がセットになったものだと気づくわけです。相対的な世界には本当の楽しみはないということを、どこかで気づかないとだめです。そして人間の人生を通して気づき、それから肉体を超える方向に向かうわけです。
楽しい修業の方向に持っていかないとね
これが瞑想です。そのようにして肉体を超える方向に向かうと、より自由度が増してきます。内面の意識に向かえば向かうほど、束縛される条件が少なくなっていきます。
これは夢と現実の生活を比べればわかります。夢では不可能の枠が少ない。究極の魂の原点に帰ったとき、あらゆることが最初から自由だったんだと気がつくわけです。だから自由はもともとあるけど、気づかなければいけないものなんです。
そのように気づくためのものが修業だとしても、それは辛いものというイメージがみんなの中にあると思うんです。しかしこれからの時代、楽しいからこそ修業するんだというふうに変わってきつつある。
その点でニューエイジの人たちは新しい時期を代表するんだけども、逃避してる人の場合は現実が今までのつらい修業の代わりをしてくれる。だから逃避でない本当の意味の、楽しい修業の方向に持っていかないとね。それで修業が楽しいと気がつけば、現実生活も楽しくなるんですよ。より積極的、建設的になる。生きていくことは楽しくなる。
けれどそれは、ずっと生きていたいという執着がとれたとき、本当の意味で楽しくなる。あらゆることを受け入れ、こだわりが無くなったとき、自然と楽しく生きられます。
[終]